子供に話しかける。

子どもは耐えられる限度を超えている

子どもの頃から派手なものを与えている
ヒロシはこうこういうところが残念なのねそうかね!
いいように、いいように、と。
ツヨシ。
ヒロシ。
どっちも考えてやってるのに、なんだか向きあって、やりあっちゃう!
どっちもまったくザンネンムネン!
両人の肩を右左に引き寄せ、右左の頬で、同時に頬ずり。
大らかな豊かな受容とうさんだって、帰ってきたら、こう言ってやればいい。ニッコリ笑って。
「喧嘩する子は、必ず育つ。喧嘩するたび、思いがけず相手のことが分かるようになる。
ツヨシ。二つの私の宝もの。おーい、きょうも頼むよ」
ぼくだよぼくだよと競いあう二人に、親たちは肩でも叩いてもらいなさい。
ヒロシ
告げ口し過ぎる先生にも近所にも、友達のことをすぐ言いつけに行きます。
のです。正義感が強いのでしょうか。

幼い子どものきょうだい喧嘩を見ていると、子ども同士が互いに決して相手に配慮するという気持がなくて、折あらば、自分が有利であれと、いわば、相手をやっつけることばかり考えているものだから、トラブルの現場を見とがめられるや、さっとどちらもが親の顔を見上げて、
どっちが悪い?
どっちが悪い?
と、聞いている。さも、自分がいささかも悪くないかのような、さも相手がメチャメチャに悪いかのような。そう言ってくれないと、絶対納得してやんないぞ、という脅迫顔して、どちらもが親を責めるので、親は、特に若い母親は、もうそこで上気してカッとなるんですねえ。
きょうだい、上と下といっても、発達や健康の状態によっては、上より下が力もあり機敏でもあるといったことが珍しくない。上がすべてのことでしというわけではありません。
それに、上は、いつも下のすることに譲歩しろと命じられてきたから、一つ手をひかえる調子なのに、下は遠慮なくグイと出て、しかも力まかせで、それでつい下のほうがなにかにつけ、イニシアチブをとる、ということがありますもちろん上が絶対君主というのも多いのですが……
教育をもっとさかんにすれば

教育の制度が新しいものになって

兄や姉って、特に幼児期には、ともすれば不当な権利の抑圧を受けるのですよ、ねえ。
下は遠慮がなくて、動作も決断もつい、いつでも機敏、ということになって、ともすれば上のほうが出遅れる。
上は配慮するくせでそうなったのですよ心くばりのない親が、いつもいつものそういう違いを見て、いつも、おにいちゃんが、もたもたしてるのね。大きいくせにとでも言いたげな様子で、上のほうをみくびってしまうことがあります。
これはいけない。
おかあさんカウンセリングで、たとえばこんなふうに
どっちが悪い?
どっちが悪い?
と、懸命に、どちらもが問うてきた時に、ただその要望に応じて、の気が済まない、といったものでもないのですよ。

母親をいらだ


子どもたちの後追い自殺が相次いだことがあった。

問いに答えてやらねば子ども問いに対して答え、という反応よりはむしろ、いちいち答えなくて、問いに夢中になる気張りを、うまく受けとめてもらう、ということが、ただ、問いたくなったその子どもの心の成長を支えて
やることになるし、子どもの心がそれによって充足する、というものです。
ここはこっちがこう悪い、ここはそっちがそう悪い、といった裁きを、親がいちいちつけていると、子はいつしか互いになにかを配慮するということなどまったくそっちのけで、どんなズルイことをしてもよい裁きを受けようと、懸命に競いあうようになってしまいます。
子ども達は、互いのウラ·オモテをよく知っているから、親の前でよかれとつくろう相手を見て、互いに、なんのことはない、おまえが悪いおまえが悪いと、親の前で、いっそう喧嘩が盛んになってしまったりして。
それを親が、大人の了見で、分からせよう分からせようとしても、い心にカケラも生じてこないのですよ、ねえ
どっちが悪い?
どっちが悪い?
分かろうとする余裕など、幼と、期せずして子ども双方が問うてきたら、おかあさんは大声で、心をこめて、丁寧に、
ツヨシは、こうこういうところが残念なのね。
子供への義務

学校だって

ヒロシはこうこういうところが残念なのねそうかね!
いいように、いいように、と。
ツヨシ。
ヒロシ。
どっちも考えてやってるのに、なんだか向きあって、やりあっちゃう!
どっちもまったくザンネンムネン!
両人の肩を右左に引き寄せ、右左の頬で、同時に頬ずり。
大らかな豊かな受容とうさんだって、帰ってきたら、こう言ってやればいい。ニッコリ笑って。
「喧嘩する子は、必ず育つ。喧嘩するたび、思いがけず相手のことが分かるようになる。
ツヨシ。二つの私の宝もの。おーい、きょうも頼むよ」
ぼくだよぼくだよと競いあう二人に、親たちは肩でも叩いてもらいなさい。
ヒロシ
告げ口し過ぎる先生にも近所にも、友達のことをすぐ言いつけに行きます。
のです。正義感が強いのでしょうか。

子どもやはりつかない自立力ガミガミだけど


勉強面の自主性へと反映されてくるのです。
親が、制止したりすると、むくれて大変な基本的には、なにかがあれば、必ずセンセのところへ来て、ちゃんと言ってねと、先生や親が、幼い人達に、言い過ぎるほど言っているのだから、なんでも言いつけに行くのは、間違ったことではないのですよねえ。
で、率直に言えば、この先生達の口ぐせのようなことば遣い、つまり、なにかがあれば、なんでも、いつでもセンセのところへというのは、無難に無事にと心配が先に立つ大人達の、いわば過保護傾向がはからずもあらわれているのだとも言えるでしょう。
ことばどおりに、題を持ち込まれて、せんからね。
なにかがあれば必ずということになると、先生はあっちからもこっちからも問それらを全部、先生が一手に引き受けて解決、なんて、できることではありまなににつけても、世の中のことは、ほどほどに。
子どもが生まれてくると事情が変化する。

子供が歩き出

極端に走らないバランス感覚というものによって丸くおさまっているのだということを、つくづくと感じてしまいますなんでも、ちょっと度が過ぎるのは、よくないのですねだとすると、その、度の過ぎないバランス感覚というものを、人はどうやって身につけていくのでしょうか。
そこですね。
おそらくこの問題のポイントは。
つい、こんなふうにしてしまいがちですが正義感が強いというべきかなんて、るのはおよしなさいよ。
正義感
があるとかないとかといったレベルで、決めつけ時と場合によって、子どもの言動って、いろいろに変わるのですからね。