勉強机の引き出

子どもでも元気で健康ならいいではありませんか。

はケンイチ自身が、心理学者ではないのであって、まだほんの幼児だから分かるわけもない。
それ一般にもう少し大きい子に対しても、かあさん達、よく理由や原因を、どうして、どうしてと問い、子どもに答えさせたがりますよねえ
どうして、万引きなんか、したのよさなんて。すると、頭をかしげて、困りぬいて、子どもはさあと、それ以上なにも言えないすると、かあさんは、分からないはずはないでしょうが。自分のやったことでしょうがァ
そんな責め方をすること、多いでしょ。
でも、自分のことだったら、なんでも自分で分かっている?ほんとにそう思います?
心のからくり、気湾麂。
ぜんぶ分かるのだったら、心理学なんていらないですよ。

母子がくっついている時間は長いようだ。


先生は言われるもし娘がピアノをやりたいと言

>子どもをとがめるのはよくないですね。さあ……?
と、自分でも分からなくて返事ができない状能こそ、子どもの自然な姿です。
だから、とにかく問い詰めのことばを吐きなさんな

父親らしさとは何か

現代の陰湿ないじめの裏には父親不在がある
を知らない現代の子どもたち数年前のことであるが、十三歳の少年が、このままじゃ生きジゴクになっちやうよという遺書を残して自殺した。原因はいじめである。少年を死者に見たてた葬式ごっこそして、その
追悼の寄せ書きをした色紙に教師たちまでが署名していたのはショッキングだった。
最近でこそいじめは大きな社会問題になっているが、いじめは最近はじまった現象ではない。


子どもは自我に目覚めてくると他人

育てられたのでしょうか。

中学受験を決められるわけがないと思っています。昔からあったもので、わたしも小、中学校の頃に盛んにやった記憶がある。何人かで同級生のお坊ちゃまをとり囲んで、オチンチンを引っ張りだしたこともあるただし、その頃のいじめは今のように陰湿ではなかった。クラスの全員がいじめの側に回ったり、徹底的に無視したりして、自殺するほどまでに相手を追いつめることはなかった。せいぜい二、三人がわあっと相手に襲いかかり、終わればケロッと仲直りしているといった感じである。
また、昭和五十九年十一月、大阪で、いじめを受けていた高校生が相手の同級生を殺すという事件があった。被害者は頭を金づちでメッタ打ちにされ、両目を突かれていた。
殺人を犯した二人は、読売新聞で「先生にも親にも言えないようなひどいいじめ方をされた。学校がいけないのではない。子どもにはじめて出会ったとき人で捕まってもそのほうがましと考えるようになった」と語っていた。
殺死ぬか殺すしかないとまで思いつめるほど、現在のいじめは根が深いもうひとつ、タレントの岡田有希子さんが自殺した後、子どもたちの後追い自殺が相次いだことがあった。
ユッコ·シンドロームなどという造語が生まれたほどである。
当時はいじめ事件もひんぱんで、そんな風潮の中、わたしはひょっとすると、まずいぞ
と思った。
自殺は伝染するものだということを知っていたからであるたとえば、誰か自分の身近な人、親しい人、憧れている人が自殺すると、自分も自殺しようという気になってしまう。しかし、この場合でも何の理由もなく死を選んだりしない自殺の動機は、大ざっぱに二種類ある。まず自罰。これはうつ病の場合で、と思い込み、そして
こんな自分なんていないほうがいいと考えてしまう。


母親のほう

のである自分をだめな存在だまさに自分を罰するもう一つは他罰。死んで見返してやる死んでみんなに思い知らせてやる
人への報復的な意味あいがこめられている。
というように、他ユッコ·シンドロームは、どちらかというと他罰傾向が強い。憎んでいる相手に仕返しをしたいとか、自分の権利を認めてもらえないことに対する不満が、岡田さんの自殺をきっかけに連鎖してしまったのだろう。それだけの土壌が、子どもたちの内面にできあがっていたのであるしかし、いくら不満があっても、大好きなアイドルが自殺しても、あんなに大勢の子どもたちが自殺をするだろうか。わたしの今までの記憶では、自殺連鎖事件は数多くあったが、あんなに多くまた低年齢層に集中したのも初めてのことである。

高校を卒業してその上

子どもの心を強くするためら異常さの原因は、やはり現代の子どもたちが死というものを知らないためではないのか。死ぬことに恐怖を感じていないどころか、死を美化しているような傾向さえうかがえるのだ。だから、あんなに簡単に自殺をしてしまうのであるそれで思いだすのが、今はやりのファミコンだ。いちおうモンスターの形をしているが、敵をやっつけるゲームが多く、死んだ敵はコロリと消えていく。よくもまあと感心するくらいいろいろな武器を考えては、いとも簡単に相手を殺していく。殺しても血ひとつ流すわけでなく、あっさりと死んだほうは姿を消していく。
これと同じように、今の子どもたちは、死を単に自分が姿を消すことぐらいにしか考えていないのではないか。


学校がいけないのではない。 育児法をみてみる 教育ではありません。